今日の備忘録

何で、本筋のブログほったらかしにして、備忘録なんだからURLでも貼り付けときゃいいだけなのに、そこに意味性も高そうな長文書き足しているのか、最近の内容見てると自分でも自問当惑してしまうのだが、たとえばブログの方はキレイに響鬼の話を続けたいと考えていて、ゼロ年代のリアリズムの行方、帰結としてブララグのblood trailを絡めたくて何か寝かしてしまっているのだが、コンテンツとしてブログというのは何か読み物としてそれなりに閉じていてほしい、読み物として一編の完結性を持っていて欲しいという美学はあるのだ、そしてそれをやるというのはなかなか物入りなので、世の中には関心を引き起こすことが顕れては遠ざかっていくのだから、その関心をまだその形が保っているうちに、メモなりの記憶として残したくて、ダイアリーの方にURLとメモを書き付けていくことにしたのである。もちろんはてなのブックマークというものがあって、そこにひたすら落としていくというものでも良いのだが、どんなURLでもページの仕組みとしてポチッとはてブできるものではないし、なかなかあれはソーシャルなものであって記事への反応はダイレクトに送り手に伝わるものなのだから論争への憚りの処理なしに好き放題に感想を残していっていいというものではない。このダイアリーでも書き留めていった関心というか、思考のつらなりというか、明瞭になっていって形を欲しがってくる内圧をtwitterのほうで書き留めていって処理しようとしたこともあるのだが、上のはてブも同様なのだが字数の制約はなかなか悩ましくて、記事のurlなりだれかのツィートをRTしたところで、残したいメモからすると、細切れに書き下していく間接さはもどかしい。ここ数日の備忘録を見ていただければわかるように、こちらがくどいこともあるのだが、長いし、同時代のトピックの繊細な場所を取り扱おうとしていけば長くもなるのだという恐れに従順に、ああダイアリーがあったじゃないかとニュースサイトのようなものをありうべくの雛形に準えながらurl貼付けて感想を添えていくというメモ帳と活用していくことにしたのであった。そんなわけで私的ブックマークとしての活用も3ヶ月ほどになるのだが、当初の目論みとしてはカイカイやらみずきさんとか、あとtwitterミソジニーのアルファ引っ張ってきたことからわかるように日本を後追うかのように発展する東アジアのサブカルネットギーク層みたいなものの厚みが産む言説と東アジアの国家のナショナリズムなりの統合装置の拮抗、あとそのサブカルネットギーク層を担う集団の厚生をできれば東アジアに拡げて、ウオッチしてみたいな興味があったのだ。そのあたりが「おそ松さん軍服を着るのをやめてください」騒動あたりが可視化した韓国の腐フェミ層の存在への関心で、どうも日本では腐と(ツイ?)フェミが重なるように、フェミ辺りと重なるシスターフッドなんだかの表現規範の偏りは韓国の国是とも重なって銀魂さん、旭日旗やめてよぉとなるわけでハイカラさんが通るへの反応がどう来るか楽しみにしているわけだが、例えば韓国ならこれらのより進歩派よりの女子層といわゆるいわゆる維新派開発独裁時代に親和的な男子層などの日本のサブカルへのファンがいて、ここでは日本の、発信力の強い国のサブカルが域内国家間で覇権的になってきたときに各国でこれらのそれらを愛好してしまう層が、東アジアならではの各国の求心統合するナショナリズムとどう緊張関係をもつのか、俯瞰したいという興味があった。中国のファン層の観測は持続的なページがあるのだが、民主主義ではないのでファンあたりの言説ではそういう緊張関係はあまり見える気がしないが、韓国では以上のように緊張、葛藤が民主化ならではで見えてくるのだが、チェ・スンシル騒動以降、国家の統合が機能するかどうかがこの先危うい状態となってしまった。カイカイだと進歩派が従北でおしまいそうで生産的な発見がなさそうだし、みずきさんとこの層はサブカルに親和的でなさそうだししかもものすごく重いし、東アジアのナショナリズムをどう見るか、自分の中に定見がないと生産的に読めないなあと距離が空いてしまった。そうこうしてる内にそんなファン層の背後にいる高齢弱者男女の問題はトランプ台頭とともに前景化していくわけで、、ネオリべ・グローバリズムダイバーシティなり社会的包摂との共犯関係を原理的に総括言及したいと思う機会も増えていって、ときおり、今ここに読まれるように、今ここの自分の立ち位置を書き留めたいという発散の場となってurl貼っ付けから逸脱していくのだ。
そんなわけで東アジアならではの帝国の言説(自由貿易やら人の自由な越境やらPCやら、面倒なことに中世まがいのナショナリズム、近世東アジアの国際社会の価値観まで絡む)vs現役世代のフーコー風に言えば生政治の対抗戦略、文化戦略、生存戦略みたいなプロブレマティック、この点で面白いのは帝国での専横を試みる特権所有者の一部(都会で保育所を所望する)から現役世代高齢弱者の対抗生政治(ミサンドリで腐女子)へと女性という集団が引き裂かれていることを当の女性たちが自覚できていないことで、これを広域へ外国人労働者セックスワーカーを含めると「帝国」内の生政治の構造はややこしいことこの上ないものになる、ともあれそんなものを設定しているところになるのだろうか、ブログから振り返れば、ここでは触れてないtwitterで書いてたことも含めたら、自分の関心はだいたいそんな線にそっていたのだな、という感慨になる。
だいたい秋頃からこんなことを書き始めたのはこういう予感を形にしたいこともあってのことだが、切っ掛けは他にもあって、シン・ゴジラのいや正確にはそれでぶり返した先の震災の、また相模原の死傷事件が強いてくるある種の解離の苛立たしさ、もどかしさみたいなものがそれで、こんなことを書き始めたのだが、相模原の件はtwitterにも書いたのだが、そこではこの解離には触れなかった。ここでも触れないことにするが、いずれ何処かに書きたいとは思っている。で、その少し前からtumblrを始めていたのだが、このもどかしさのなかでひたすら増加する症状じみたゴジラへのpostをrblgしていって、postの海のなかで、タンブリスタたちなりの視点で切り取られたそれぞれのエントリーの要所々々の引用に触れて感じたことがある。ネットのなかの、より読まれ流通していく言葉は、それにつれ、このような断片にばらされていく力に晒されていき、いわば自らをコピペにまで切り落としていき、流通にふさわしい形態へ自己精白し、そのときの断片のもつ強さによって、流通の頻度は左右されるのではないか。もちろんコピペと言う表現が示すようにそこでファクトは重要ではない。アーティクルの要点にまで精白されたコピペはもはやそれ単体で本当らしさを保つわけではなく、その言説の意図を描き出すテクストの巧みさ、かつその巧みさが担保する意図の描出の明確さが、本当らしさ以上に読まれることへの値を充当することになる。つまりもっぱら言葉に担保される説得力こそが、より読まれることが産む信憑性を担うことになる。その結果そこでは書き手なり読み手の言葉への態度自体が問われる。嘘を見破れない人がネットを使うのは難しいという言葉があったが、逆に言えば言葉なりメディアしかないのだから、原理的に言えば全部ウソで全部ホントだ。つまり書き手や読み手の言葉への関係性、誰かの言葉の他の言葉への関係性しかないのだ。このように言葉の無責任性、無節操さが露呈した環境で、ものを読み、書いていく者はどうしていけばいいのか?
とりあえず、ファクトの無上の価値を信じることはやめることにする。すすんでウソをつくつもりはないが、読まれているのは言葉が与えている内容なのだから、そこで必要なのは説得への技術なのである。読まれることにおいて、そのようなあり方でホントらしさを担保していく言説は、ほとんどフィクションのあり方とかわらなくなる。そういうわけで、ファクトの無上の価値を信じるのをやめつつ、説得への技術を志向したり、放棄したりするこの文章の筆者は、自分の書いたものが結果、フィクションであったり小説となってしまうことを許容し、むしろすすんで受け入れざるを得ない。そうであれば、そもそもこのテクストの筆者の署名とてとりあえずのものなのだから、逐次メディアごとに(重複する署名、アカウントは許されないのだから)とりあえずの署名のもとに、自らを仮構しつつ、何らかの言説を発信していくこともまた、許容され推奨されてしかるべきではないだろうか、ともこの文章の筆者は考える。
そんなわけで上のような関心のもとに継続された思考、思いつきを別のブログやメディアで書き(なぐった)ものを所々でこの文章の読者は目にすることもあるかもしれない。あるいは、それらの思いつきを発する複数の署名どうしの中に相容れない相異なる所見を見いだすこともあるかもしれない。それは単数の個体の書いたものかもしれないが、複数の個体によるものではないかと考えてはいけないという禁忌もまたないのである。

最後まで読んでいただきありがとうございました(4/28了、これは長くかかった、他のものはほとんど書けなかった、バカだろう)。