今日の備忘録

http://thirdfemi.exblog.jp/27105158/
「じっさいしばしば、承認の主張はアイデンティティ・ポリティクスの形式をとります。これは私からみると不幸な事態です。それはあらゆる種類の問題を生み出しますし、承認のために闘うことを意味するものであれば、よりアイデンティティ主義的でない思考を見いだせるならしばしばそのほうがよいのです。」(原文見て少し触った。誤訳にならないことを願う。)こういう話がなかなか日本でフェミなりエスニシティででてこない。
おそらく(おそらく市民なり国民として)統合される均等さを探求することにおいて、承認と分配の政治は別のものではないのに、アイデンティティ政治の前景化は、分配の均衡点を無化するが故に分配を後景化させ、アイデンティティ達の内戦を導き、富の格差の拡大に貢献すると。
そして再分配に焦点化するサンダースと、トランプへの国家主義的な支持に分配への同質な関心を見出したあとに提起される「表象−代理」の問題とは(国家)主権のことではなかろうか。自由貿易体制下で成立してしまう帝国と諸属国間での主権の格差の問題である。この格差が帝国へのより求心力の源でもある。もちろん解決策として国家間の再分配という解もありうるとは思うが、ここでは表象(デモクラシーがそれに委ねられる機制)が言及されるからには、主権在民においてトランプが選ばれてしまうのは道理なのだから、帝国の首長を選ぶ主権者は帝国本国の市民だけでいいのかという問いが予想されてしまうのである。

http://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/2016/11/29/mohayakoremade/
上のお菊さんのTwitterからたどり着いた。上のテキストを読んで抱いた予感をかなり明確に形にしている。が「この問題に答えを見出せないとすれば、国民国家が本質的に抱えもっている生存に対する危機を座して覚悟するという選択しか残されないと思う。それでいいはずはない。」晩期フーコーの仕事を調べて俯瞰してるのだが、そんな視座からすると、「座して覚悟する」ことを意識的に選択する以外に抵抗と自由の拠点はありえないと思う。どのみち世界政府なり主権の拡散があったところで、「生存に対する危機」は再生産されることは間違いない。