「娼婦らよ、汝ら戦地へ赴き、兵たちを慰安するを以って隊の衛生を清浄ならしめよ」と女たちは言った、のか?

http://satophone.wpblog.jp/?p=6121
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/handle/11094/23007
http://www.osaka-up.or.jp/books/ISBN978-4-87259-560-4.html
http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/35621

タイトル思いつくのに一日かかって、気がめいって、参考に矯風会調べると気分が悪くなって、そのまま寝かしてしまって、書き出しに取りかかるののも気がめいる話なのだが、まあミソジニーを煽りにかかるような良くないタイトルではある。援用している林葉子先生の論文なり本はそういうミソジニーを諌めるような意図をもって書かれているのであるから尚更ではある。
御題はこの前のさとぽん先生の記事が示唆しうるトピックの輪郭を勘ではあるが、書いて置きたくなったのである。長沢健一氏の「漢口慰安所」という本に警察部長からの感謝状という一節があり、昭和14年、内地から大勢の唱妓を受け取った中国戦線の日本軍の担当部署が後日、内地の警察部長から「当部業務にご協力賜り云々」という感謝状をもらったというエピソードがあること、その受け取った唱妓は廃娼運動で職にあぶれた人たちであったことが示唆しうるものである。
ここでタイトルのミソジニーの話にもどる。昭和14年といえば1939年、林先生の博士論文の要旨で言えば、例えば矯風会は既に女性独自による運動の性格を既に強めていた時期であり、このタイトルを仮とはいえ設問としてありえるのではないかと考えたのだ(だから、もちろん男たちも主語であっていい)。
じゃあ何を示唆してるの?と考えるのかというと、内地での慰安婦の募集、斡旋に国家、ここでは内務省が直接関与していること、(これはよく言葉遊びと言われる、そりゃ、慰安婦になれば一種の公務員になるのだから関与してないはずないのだが)、それは自発性を保証する対等な関係での参加というよりは、取締主管対象への権限の行使をもって行った官庁としての施策ではないか、なんなら俗語「強制連行」と呼んでもいい、とは前に書いた。
問題はその政策に廃娼運動が、なかでも女たち独自の社会運動が、支援、協力していたかということ、戦地での慰安婦という暴力や虐待に晒されやすい業務が廃業後の対策かもしれないこと(さとぽん先生の永井先生の論文の註を見るとそう考えたくなる)、もしそうならそれと知って唱妓たちを廃業に追い込んでいたのか、なのである。
当時それなりに行政と廃娼運動が協力関係にあったことを考慮するなら、少なくとも指導層は知っててやったんじゃないかという念を拭えない。すると娼婦の棄民的な輸出と引き換えに内地の浄化を実績として積み上げるということになるわけだ。そして公娼制の温床たる軍の廃止とともに公娼制に引導を渡し、売春防止法を手に入れるにいたるわけだが(特殊慰安施設協会をその途上の過程と見ることもできる)、ここで注意してほしいのはこのプロセスは度々、売春もしくは売春婦を捨石にしなければならないことである。
と、こういうことを考えてたらこういうものを見つけた。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_23-2/RitsIILCS_23.2LEE%20Na.pdf
いや、よくできている、見えてるな、という論文、とはいえ公娼制の移植されたシステムの駆動で植民地からたいていの慰安婦を供給しえたという理解は巷間伝えられてるパク・ユハみたいな、またはせっかくアン・ローラ・ストーラー引いてるのに宗主国側の「国民」概念に走ってる亀裂にはこの人、意識あるのかね、みたいな詰めの甘さがないでもない、なのだが、これを読んで思うのは、日本が売春防止法を持ちうるのは、慰安所制の後身たる基地村が韓国にあるからである。ようするに安全保障に伴う性の負担を旧植民地にアウトソースしてるからこそ、売春防止法みたいなものが可能なのだ。

林先生の博士論文からこの領野というか分野を取り扱うのに、この先、銘としておきたいものがあったので引用しておく。
「(前略)スコットがいうように「私たちは、二項対立のもつ固定的で永 続的な性格を拒否し、性差の条件を真に歴史化し脱構築する必要があ 」り、ジェンダーのみならず「階級」や「人種」についても、同じことが言える。そして廃娼 運動の言説に向き合う私たちに必要な作業は、この「歴史化」なのである。
廃娼と存娼の対立点は、買売春を国家が制度化しなければならないほどに男性の 性欲は統御困難なものであるか否かという問題であり、もし統御困難であれば、そ れをいかに管理すべきかという問題であり、あるいは、女性には男娼が不要で男性には娼妓が必要だという考えの背後にある二重基準の問題性であった。その対立は 「性を所有したいという欲望、性に到達したい、性を発見し、解放し、言説に表わし、真理として表明したいという欲望」としての「性に対する欲望J (ミシェル・ フーコー) の発現である。そして、公娼制度の前提として想定されている「男」や「女」のイメージは、廃娼派の言説によって絶えず撹乱され、揺らぎ、決して固 定化されることはなかったのである。たしかに(中略)女性の性器としての膣を持たない 者が娼妓として登録されることは原則的には無かったと考えられ、その意味におい て、娼妓が「女」であるということは、イメージの問題であるだけでなく、身体の 問題であった。また、性について語る者たちがいる一方で、語ることを禁止された 人々が存在し、その言説の配分は性的身体と深く関連づけられながら決定されてい た。しかし私たちは、性の歴史としての廃娼運動史をたどることによって、「男」 や「女」をめぐる「知」がいかに短期間のうちに移り変わっていったのかを知るのと同時に、その「知」がいかに当時の人々の生を強く束縛し〈生きられた身体の経験〉へと結びついていったのかということも確認することができるだろう。」

上のリンク、林先生の博士論文「女たち/男たちの廃娼運動 ー日本における性の近代化とジェンダー」より
おしまい。